ドラッカー入門
- 作者: 上田惇生
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2006/09/23
- メディア: 単行本
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ドラッカーが自身の分身と称した上田惇生先生による『ドラッカー入門』
世の中にはできる人とできない人がいる。この2つを隔てるものは何か。それは才能ではない。いくつかの習慣的な姿勢と、基礎的な方法を身につけているかどうかである。これらは教わらなければならない。自分でわかるようになった時には、すでに60になっている。
習慣的な姿勢と、基礎的な方法を身につるためには、以下の5つに気を使う必要がある。
1.時間の使い方
2.貢献に焦点を合わせる
3.強みの上に築く
4.集中する
5.成果を上げるように意思決定する
1.〜3.の詳細
1.時間の使い方
成果を上げるためには仕事からスタートせず、時間からスタートする。まずは成果を上げるための準備が必要である。
・時間を記録する
・時間を管理する
・自由になった時間をまとめる
2.貢献に焦点を合わせる
為すべき貢献を考える。組織における自らの立場を認識し、使命に思いをめぐらす。自らに多くを求め、他人に多くを求める。多くを求めることで、自他の成長が促進される。
3.強みの上に築く
強みの上に築くことで、弱みに築く場合と比べてはるかに簡単に、成果を残すことができる。そのためにはまず、自分の強みを知る必要がある。
自分の強みを知る方法は2通りある。
・あらかじめ期待する成果を書き留めておき、それを実際の成果と見比べる
・人に聞く
ただ、自分の強みと価値感が異なる時は、価値感を優先させなければならない。価値感の違う組織で、自らの強みを活かすことはできない。
進化論的思考
駅から学校まで5分間ぐらいを早歩きすると、軽く汗をかく。軽く汗をかくだけなのにもかかわらず、すごいのどが渇くことに気づいた。500mlを一気飲みするぐらいに。こういった現象は僕の体だけについてかもしれないが、どうもこれからもっと汗をかくと体が察知して、事前に水分補給をしておこうという企みを感じる。汗をかくのは、体温調整というメリットがある一方、水分を体外に放出し、血液をどろどろにするというあまり望ましくない現象も引き起こす(デメリット)ものと推測する。そのデメリットを軽減する体の企みを感じずにはいられない。
なぜこの現象はこうなっているのか?あらゆる現象とか仕組みには絶対に現状あるにいたった原因があるはずだ!というスタンスで問うことを進化論的思考というのかもしれない。
育てるということ
農園を借りて野菜を作っているが、野菜を作ることは教育と同じだと思った。その本質が「按配」という点において。
種をまいて発芽するまでは、欠かさず水やりをしなければならないが、ある程度大きくなって根が張ってくると、水をやりすぎることは悪に転じるらしい。というのも、根は水分のあるところを捜し求めて根を伸ばしていくので、株近くに水をやり続ければ、根を伸ばさずとも水分を得ることができるので、根の定着が不十分になるのだ。もちろん、水をやらなければ枯れてしまう。どれくらいの間隔でどれくらいの量を与えたらよいのかというのは、天候にも影響されるし、品目によっても様々だ。まさに教育ではないか!
ロボットの虫
爆笑問題のニッポンの教養 2009年2月24日放送分 「ロボットの虫」を見た。
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20090224.html
ロボット工学のパイオニア、三浦宏文。彼がロボットの世界に身を投じた1970年代後半は、産業ロボットの全盛期。しかし、三浦は、独自のロボット開発に没頭する。それは「人間らしい動き」をする人型ロボットだった。
そして三浦は、今から26年前、世界で初めて動的二足歩行ロボットを発表、世界を驚かせた。さらに「けん玉ロボット」や「コマ回しロボット」などを次々と開発、人型ロボットの権威として学界をリードしてきた。
しかし、やがて三浦は、人型ロボット作りに限界を感じるようになる。「しょせん人間のプログラム通りにしか動かない」。そんな折、ゴキブリが人間に見つからないように餌にありつこうとする姿を目撃。三浦は、ゴキブリの動きに、それまで手がけてきた人型ロボットにはない強い「意志」を感じ取ったという。以降、三浦は、さまざまな昆虫を規範にしたロボットを研究開発。昆虫ロボットの可能性を追求している。
人間には遠く及ばない数億年にわたる進化を遂げてきた昆虫。単純だが効率を極めたそのカラダの仕組みに学ぶことは多いと語る三浦が、爆笑問題とともに、ロボットの未来について語り合う。
『爆笑問題のニッポンの教養 過去放送記録』より
人工知能ロボットを開発するにあたって、三浦宏文先生の昆虫に関心を持った過程がとても面白かった。先生が学生たちと、意志を持ったロボット(人工知能)開発について酒を飲みながら議論している時、ゴキブリを見たそうな。人に見つからないように現れ、人が近づいてこうものなら、恐怖から?たちまち冷蔵庫の下に逃げ込んでしまう。そして、冷蔵庫の下から、触角を動かして様子を伺っている様は、まるで意志を持っているかのようなだったという。
でもよく観察すると、実はゴキブリには尻尾に空気流センサーがあって、センサーが空気の流れをキャッチすると、筋肉が全速力で動くという設計になってるだけであった。
結局、ゴキブリには意志がないと結論したが*1、「意志があるように見えた」というのが、先生が昆虫に見た人工知能開発のヒントそのものであった。
『意志があるロボット』の開発ではなく、『意志があるように見えるロボット』の開発という人工知能開発の根本的思想の転換である。私もこの考え方であれば、人工知能に可能性を感じる。なぜなら、昆虫や動物に限らず、本人以外の人間であっても、本人にとっては意志があるように動いているだけの存在なのだから。人間とその他の生物に安易に線を引いちゃいけないということですな。
*1:もちろん意志があるかないかは本人(人ではないが)しか分からないが
デリカシーについて
僕はこれまで、デリカシーのない発言で、お世話になっている人に不快な思いをさせてしまったことが何度かある。自分で気づいているだけでも”何度か”だから、気づいていないものも入れると、相当な数になってしまうのだろう。
逆に、他人のデリカシーのない発言で、僕が不快な思いをすることだってたくさんある。
たとえば、先日、就職活動のために地元から上京してきた友人を泊めた時のことだ。研究が多忙を極め、その日は夜通し研究室にこもる予定だったのだが、友人に緊急に当日泊めてほしいと懇願されたので、就活関連の情報チェックのためのネット環境を持たない友人のために、大学からノートPCを持ち帰り、シャワー・室内着を貸し、明日のプレゼンのための配布資料を刷り、朝食バナナをfeedし、磐石の面接態勢を用意したつもりだった。
後日、幸運にも友人は面接がうまくいったと連絡してきた。「お前のおかげだ」とまでいってくれた。僕は「そうだな」と返信した。ここまではごくごく普通のやり取りだ。だが、次の友人の返信が、ものすごい心に引っかかった。
友人曰く、「結局、配布資料は求められず、配らなかったので、お前のおかげではないが、お前が支えてくれた意味のみでそう」だと言うのだ。いや、まぁ、確かにそのとおりで、正直でいい返信だとは思うのだが、また、「べつに普通の返信じゃん。なにがイライラするの?」と思われる心の広い人もいるかもしれないが、とにかく、瞬間的に嫌な思いをした。
その、「瞬間的な嫌な思い」というのは、「あそこまでお前に尽くして、その発言かよ!」というものだ。
友人が冗談のつもりだろうが、なかろうが関係ない。メッセージの受信者である僕が不快な思いをしたのだ。
「俺が泊めてやったから、おめえはよい結果を得れたんだ!俺のおかげだろ!*1」とか「資料を配らなかったとかは結果論だろが!俺んちで、アホみたいにカラープリントしたからこそ、精神的に余裕は持てたはずだろが!」とか、そういう実際的な気持ちもなくはないのだが*2、もっと大きく心に引っかかるのは、友人のデリカシーのなさだ。
確かに感謝しているんだが、感謝をどううまく表現していいのかわからないとか、デリカシーのない発言は申し訳なかったが、そういうつもりで言ったのではない、というのは言い訳にならない。
なぜなら、デリカシー(気配り・配慮)そのものが感謝とか真意を表すものだからだ。
そして、自分にかえって考えてみると、これまで、数え切れないほどのネガティブキャンペーンをしてきたことに気づく。そして、許す許さないの問題ではなく、発言者に対する見方を永久に変えてしまうものであることを知り、顔色を失うのだ。