デリカシーについて

僕はこれまで、デリカシーのない発言で、お世話になっている人に不快な思いをさせてしまったことが何度かある。自分で気づいているだけでも”何度か”だから、気づいていないものも入れると、相当な数になってしまうのだろう。

逆に、他人のデリカシーのない発言で、僕が不快な思いをすることだってたくさんある。

たとえば、先日、就職活動のために地元から上京してきた友人を泊めた時のことだ。研究が多忙を極め、その日は夜通し研究室にこもる予定だったのだが、友人に緊急に当日泊めてほしいと懇願されたので、就活関連の情報チェックのためのネット環境を持たない友人のために、大学からノートPCを持ち帰り、シャワー・室内着を貸し、明日のプレゼンのための配布資料を刷り、朝食バナナをfeedし、磐石の面接態勢を用意したつもりだった。

後日、幸運にも友人は面接がうまくいったと連絡してきた。「お前のおかげだ」とまでいってくれた。僕は「そうだな」と返信した。ここまではごくごく普通のやり取りだ。だが、次の友人の返信が、ものすごい心に引っかかった。

友人曰く、「結局、配布資料は求められず、配らなかったので、お前のおかげではないが、お前が支えてくれた意味のみでそう」だと言うのだ。いや、まぁ、確かにそのとおりで、正直でいい返信だとは思うのだが、また、「べつに普通の返信じゃん。なにがイライラするの?」と思われる心の広い人もいるかもしれないが、とにかく、瞬間的に嫌な思いをした。

その、「瞬間的な嫌な思い」というのは、「あそこまでお前に尽くして、その発言かよ!」というものだ。

友人が冗談のつもりだろうが、なかろうが関係ない。メッセージの受信者である僕が不快な思いをしたのだ。

「俺が泊めてやったから、おめえはよい結果を得れたんだ!俺のおかげだろ!*1」とか「資料を配らなかったとかは結果論だろが!俺んちで、アホみたいにカラープリントしたからこそ、精神的に余裕は持てたはずだろが!」とか、そういう実際的な気持ちもなくはないのだが*2、もっと大きく心に引っかかるのは、友人のデリカシーのなさだ。

確かに感謝しているんだが、感謝をどううまく表現していいのかわからないとか、デリカシーのない発言は申し訳なかったが、そういうつもりで言ったのではない、というのは言い訳にならない。

なぜなら、デリカシー(気配り・配慮)そのものが感謝とか真意を表すものだからだ。

そして、自分にかえって考えてみると、これまで、数え切れないほどのネガティブキャンペーンをしてきたことに気づく。そして、許す許さないの問題ではなく、発言者に対する見方を永久に変えてしまうものであることを知り、顔色を失うのだ。

*1:他の宿泊選択肢があろうがなかろうが

*2:(笑)