なにかをするということについて少し考えた

教養本を読むこと、セミナーに行くこと、ボランティアすること、研究について言うならば、現地や講演会に行ったり、文献を読むこと。これらは自分を磨くのに必要不可欠な行為であるとは思うが、行為そのものをたくさん集めさえすれば、自分がよりブラシュアップされるというものではない。なぜなら、こういった行為は、触媒でしかないからだ。

いかにたくさんの触媒を集めたところで、反応物である自分に化学反応を起こすものでなければ意味はない。大切なことは、見たものや触れたものの背景に自分は何を見出したのか、そこから何を考え、どう血肉化していくのかということだ。要するに、触媒を利用して、思考せよということだ。どこまで深く思考できるかが重要だ。

行為自体をひけらかす輩もいるが(自分にも思い当たる節がある)、ひけらかされたものをみても「すご〜い!」「やば〜い!」とは思わないし(近親憎悪と言うべきかな)、美学としてもいかがなものかと思う。

よい行為というものは存在しない。善悪をつけるのであれば、行為に対する自らの解釈に対してであろう。

まぁ、こういう日記を書けば、一日中ニコニコを見続けていた自分を許せる気がしてきた。